大阪の大動脈「御堂筋」が2017年(平成29年)5月11日で完成80周年を迎えます。
この記事では、長年に渡り、大阪の経済・文化・行政をささえ、美しい景観を持つことでも知られる「御堂筋」にスポットを当てて紹介していきます。
目次
御堂筋とは
御堂筋とは、大阪の中心部(梅田~淀屋橋~本町~心斎橋~難波)を南北に貫くメインストリートです。
次の赤線をひいてある場所が「御堂筋」となります。
距離は、「阪神前交点(北区)」~「難波西口交点(中央区)」間の全長4,027m。
道幅は、43.6mの6車線。南向き一方通行となっています。
名前の由来
御堂筋という呼び名は、1597年(慶長2年)創建の「北御堂(西本願寺津村別院)」と1595年(文禄4年)創建の「南御堂(東本願寺難波別院)」を繋ぐ道であることが由来です。
なお、日本の歴史上はじめて「御堂筋」の名称が使われたのは、1615年(慶長20年)になります。
江戸幕府(徳川家)と豊臣家の戦いで有名な大阪夏の陣。
その後の落ち武者狩りを記録した「大坂濫妨人落人改之帳(おおさからんぼうにんおちうどあらためのちょう)」で「捕らえられた男性の居場所は大坂御堂筋」という記述があります。
大阪では、東西に延びている道路を「通(とおり)」、南北を「筋(すじ)」と呼びます。
大阪市内の主要道路
- 通・・・本町通、中央大通、長堀通、千日前通
- 筋・・・四ツ橋筋、御堂筋、堺筋、松屋町筋、谷町筋
元々は、「通」は町そのものを指し、「筋」はある場所へ向かう道のりという意味で使われていたそうです。
沿道の街並み
御堂筋沿道の建物は、1920年(大正9年)に導入された「百尺規制」から続く”高さ制限”により、高さがそろった整然とした景観がつくられています。
沿道には、大阪市庁舎や日本銀行をはじめ、
- 大企業の本社ビル(竹中工務店、日本生命保険、武田薬品工業、大阪ガス、岩谷産業、日本触媒、エレコム)
- 金融機関(メガバンク、地方銀行)
- 高級ブランドショップ(エルメス、ルイ・ヴィトン、シャネル、ロレックス、グッチ、カルティエ、プラダ、ティファニー)
- 百貨店(阪急百貨店、阪神百貨店、高島屋、大丸)
- アップルストア
など、さまざまな都市機関・商業施設が集積。
地下空間には、大阪一の利用者数を誇る大阪市営地下鉄御堂筋線も走り、まさしく大阪の大動脈です。
季節によっては、
- 黄色に色づいた900本を超える「銀杏(イチョウ)並木」
- ギネス世界記録に認定された「御堂筋イルミネーション」
を楽しむことができ、大阪国際女子マラソンや大阪マラソンなどの大会コースとしても使用されています。
また、沿道には、国内外一流作家の「彫刻」もたくさん設置されてます。
「人間賛歌」をテーマにした彫刻の数々は、気軽に美術鑑賞ができるアートスポットとして多くの人を楽しませています。
御堂筋沿道の高さ制限の変遷
御堂筋沿道の高さは、年代により移り変わってきました。
1920年(大正9年)に100尺(30.3m)と定められ、1931年にメートル法で31m、その後は、大阪の発展に合わせて徐々に緩和されていきます。
期間 | 1920~1969年 | 1969~1994年 | 1994~2013 |
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高さ制限 の手法 |
市街地建築物法に基く100尺制限 | 行政指導による軒高31m制限 | 行政指導による軒高50m制限 |
高さ制限 の内容 |
100尺(31m) | 軒高31m(3:2の斜線制限) 塔屋等含む最高高さ43m |
軒高50m(4m壁面後退) 塔屋等含む最高高さ60m |
橋下徹市長(当時)は、企業の東京一極集中、御堂筋地区の地盤沈下、既存ビルの老朽化を受け、2013年に条件付きで高さの規制緩和を行いました。
これにより、最高高さ100m超(低層部分は軒高50m)の高層ビルの建設も可能となり、2015年7月に規制緩和適用第1号となる三菱東京UFJ銀行大阪ビルの建て替え工事がはじまりました。
御堂筋の歴史
今でこそ、大阪のメインストリートと位置づけられる御堂筋ですが、元々は、全長1.3km幅6mほどの狭く短い道で数ある裏通りの一つにすぎませんでした。
これは、大阪の町が大阪城を中心に東西方向に発展を続け、交通に関しても東西軸である「通り」が重視されてきたためです。
その御堂筋に転機が訪れたのが、1921年(大正10年)のこと。
梅田(旧国鉄大阪駅)と難波(南海電鉄難波駅)に駅ができたことによって、「南北軸」の必要性が高まったことから、第7代大阪市長關一(せき はじめ)により「都市大改造計画」が打ち出されました。
そのメイン事業が「御堂筋の拡幅工事」だったのです。
關一は、1873年、静岡県伊豆に生まれました。
小学校教員である父のもとで育ち、自身も教職への道を歩んでいきます。
23歳という若さで新潟市立商業学校の校長と教諭を兼任。さらには、ベルギーやドイツへの留学を果たし、帰国後も教職への道をひた走ります。
そんな關一を大阪へと招いたのが、第六代大阪市長の池上四郎です。
その頃は、東京高等商業学校教授職(一橋大学の前身)のポストについており、文部省や渋沢栄一(東京高商創設者)からとどまるように説得されましたが、「自身の研究を実行してみたい」との思いにより、大阪市助役に就任しました。
助役就任を経て、1923年には市長に就任。
社会政策学や都市計画学の知見を活かし、
- 社会資本(港湾・道路・電灯・市街電車など)の整備
- 公営住宅の整備
- 大阪城天守閣の再建
- 市民病院・私立大学の設立
- 大阪市中央卸売市場の開設
など様々な政策を実行しました。
關市長が語った「上をむいて煙突の数を数えるだけではだめだ、下を向いて下層労働者の生活をみよ。」という労働者の生活基盤強化に努めた政策や政府が大阪砲兵工廠、大阪造幣局を置いたことで、大阪には金属工業、繊維産業を中心に商社、新聞など様々な企業が勃興。
東京を凌ぐ人口を誇るようになり、大正後期から昭和初期にかけて「大大阪時代(だいおおさかじだい)」と称される黄金時代が実現されました。
現在、中之島の大阪市立東洋陶磁美術館前には、「大阪の父」とも呼ばれました關一氏の功績を称える銅像があります。
問題山積みの計画
「道幅を6mから約8倍に拡張。電柱を完全地中化し、さらには道路の下に地下鉄を走らせる」
關市長の考えに市民は「市長は船場の真ん中に飛行場でもつくる気か」と度肝をつぶしたと言われています。
そして、その100年先を見据えた当時では類をみない壮大な計画は、当然のことながら、困難を極めました。
1、工事費用の捻出
工事予定地となる御堂筋周辺には、すでに多くの建物が密集しており、その中には、先祖伝来の土地とのれんを守り続ける商家や大邸宅が多数ありました。
そのため、地域住民の説得はもちろん、多額の立ち退き料(総事業費の90%とも言われています)も必要となりました。
しかし、当初あてにしていた国からの援助は、世界恐慌や関東大震災の影響により、予算をあまり得ることができず、資金計画の見直しを余儀なくされました。
そこで關市長が考え出したのが、「受益者負担金制度」です。
これは、御堂筋の拡張よって、沿道の商家に「どのくらいの利益がもたらされるか」を算出し、その額に応じた負担金を税金として納めてもらう方法です。
はじめは、市民も猛反発しましたが、關市長は御堂筋拡張が「どれほど大阪の発展に有益か」を説き続け、関係者も立ち退きに同意してもらえるように何度も説得を行いました。
その結果、工事費用約3300万円(当時の金額)の約3分の1を受益者負担金でまかなえるまでになり、資金問題は解決に向かいました。
2、軟弱な地盤
1926年(大正15)10月、資金確保により、ようやく御堂筋の拡張工事が始まりますが、そこでも様々な困難が待ち受けていました。
というのも、大阪市内の土地は、かつては大半が海の底でした。
そのため、上町台地を除き、約8割は「プリン地盤」と呼ばれる軟弱地盤となっており、無論、御堂筋周辺に関しても例外ではありませんでした。
特に地下鉄を通すためにトンネルを掘る作業は困難を極めました。
ましてやショベルカーやシールドマシンなどの便利な掘削機がない時代です。
当時の土木技術による騒音・振動などは相当なもので、「家が傾いた」「壁が落ちた」などの苦情が市役所に持ち込まれ莫大な補償金を要求されたり、地下水が枯れ果てたりもしました。
また、御堂筋にかかっていた4本の川(堂島川、土佐堀川、長堀川、道頓堀川)の下にトンネルを通すために、川をせきとめて工事を行っていましたが、その際に川の締切りが決壊して道路の一部が冠水するトラブルにも見舞われました。
11年の歳月をかけてついに開通
1926年(大正15年)に始まった御堂筋拡張工事は、11年後の1937年(昭和12年)5月11日、ついに完成の時を迎えました。
- 中央部を高速車道
- その両側を緩速車道
- 外側を歩道
として整備。
開通当初は、まだまだ車が庶民から程遠い存在だったため、ほとんど走っておらず、都心とは思えないほど、のどかな風景が広がっていました。
その後、關市長の予想通り、御堂筋は周辺に大きな経済効果を生み出すことになります。
沿道には、大企業や金融機関、百貨店などのビルが続々と建てられ、
- 100尺制限により、高さがそろった美しいスカイライン
- 大阪ガスビルディング、大丸百貨店などの趣向が凝らされた建物の集積
など、パリをはじめとするヨーロッパを模範として計画された御堂筋は、その理想通り、美しい景観に形づくられました。
なぜ、イチョウが選ばれた?
御堂筋のシンボルで「近代大阪を象徴する歴史的景観」として大阪市指定文化財にも指定された「イチョウ並木」は、完成時に植えられました。
樹種選定では、当初、フランスのパリ市内でもよく見られる「プラタナス」が有力で、意外にもイチョウは少数派の意見でした。
しかし、「東洋の特産だから、外国人に珍しがられる。国際都市を目指す大阪にふさわしい」と声があがり、最終的には、大阪駅前~大江橋までをプラタナス、大江橋以南をイチョウという案で落ち着きました。
現在では、すべてがイチョウに植え替えられ、御堂筋を緑豊かな都会のオアシスにしています。
豪華絢爛な地下鉄道
地下鉄に関しては、御堂筋の完成に先駆け、1933年(昭和8年)に「梅田~心斎橋」間が開通しました。(昭和10年に難波、昭和12年に天王寺まで延長)
全国では、東京(浅草〜上野間の2.2km)に次いで2番目の地下鉄です。
当時の車両はわずか1両編成でしたが、将来の輸送量増加を見込み、8両編成に対応したホームでした。
その規模は、東京をしのぎ、欧米の技術が導入された駅構内は、機能性はもちろんのことながら、見た目も美しさにもこだわった豪華なものとなっていました。
アーチ型の高い天井、シャンデリア風の蛍光灯照明などは、多くの人々を魅了し、現在も大阪一の乗降客数を誇る路線として大きな役割を担っています。
大阪経済の中心として発展
その後、日本は、太平洋戦争に突入していきます。
空襲により、御堂筋沿道の建物を含め、大阪の街は甚大な被害を受けますが、奇跡的に御堂筋は「道・地下・街路樹」ともに無事でした。
それは、復興を願う市民たちの心の支えとなり、「戦後復興のシンボル」として発展。
1958年(昭和33年)には、建設大臣の直轄管理となり、国道指定を受けました。
1960年代の高度経済成長期には、御堂筋沿道でビルの建築ラッシュがあり、淀屋橋~本町間は、日本有数のビジネス街として繁栄しました。
マイカーブームによる一方通行
1965年(昭和40年)頃は、日本経済の拡大とともに乗用車需要が急増。
トヨタの「カローラ」や日産自動車の「サニー」など、サラリーマンにも手が届く大衆車の販売により、空前のマイカーブームが起きました。
そして、広大な道幅を誇る御堂筋でも混雑が目立ちはじめ、大阪万博開催を機に1970年(昭和45年)、南向き一方通行(堺筋は北側一方通行)に変更。
現在の御堂筋に近い姿になりました。
最後に
大阪の歴史を語るのに欠かせない「御堂筋」
元々は、わずか6m幅しかなかったのは、ちょっと驚きだったのではないでしょうか?
100年先を見据えてつくられた御堂筋は、80周年を迎えた今なお大阪経済の中核として機能し続けています。
近年は、都心回帰を追い風にオフィスビルだけでなく、超高層マンションが建てられたり、インバウンド(訪日外国人客)の増加に合わせてホテルの建設計画も相次いでいます。
また、大阪市としても、
- 自動車の通行量の減少
- 自転車と歩行者の通行量の増加
という環境の変化に対応するために、歩道の拡張や自転車通行空間の新設なども計画され、ますます魅力的な道路に変わろうとしています。
画像出典:大阪市ホームページ